いのち: 仕組みを超越したもの

農家が植物や動物の命の尊さを敬う時、キリスト教における管理者の職務の教えを守ることになるのだ。

 

生物にも感じる力があることの実感。たとえそれが偶然であっても、深遠で荘厳な問いかけへと誘う。静けさを友に座ろう。新しい洞察の世界に心を留めよう。

 

 

生きものは根本的に生物的なものだろうか。それとも機械的なものだろうか。答えによって、あなたの生きものに対する見方がわかる。そしてその結果、人間ではない生きものの世話をする時、革新的技術をどこまで使うかの限界を定めることになる。この問いは、工業的農場・食品システムとエコロジカルなそれとを分ける根本的な問いだと思う。また、工業的食品システムを擁護する立場の人と話し合った時、この質問が他のどの質問よりも答えに詰まらせるものだとわかった。私の新しい著書「The Marvelous Pigness of Pigs: Respecting and Caring for all God’s Creation (豚の素晴らしい豚らしさ:全ての神の創造物への敬意と心配り) 」の中で、私は環境保護に関心があるクリスチャンに、管理者の職務についての環境保護的倫理を信奉するよう勧めている。私の主張は、もし全ての生きものが単に機械的なものなら、生きものはプラスティックや粘土のように生気のないものだということだ。広げていけば、もし生きものが単なる物以上でないのなら、私たちの思いつく限り、自由に操ることができることになるだろう。

 私を知っている人たちは、エコロジカル農業従事者という仮面に当然ついていくるステレオタイプな人間像を面白おかしく一蹴するため、私がわざと「クリスチャン・自由擁護者・環境保護主義者・資本主義者・変人・ファーマー」というニックネームを使っていることをわかっている。クリスチャンの友達と一緒にいる時は、環境保護主義の友達の態度について謝ることに多くの時間を費やしている。環境保護主義の友達と一緒にいる時も、同じ位の時間をクリスチャンの友達の態度について謝ることに費やしているんだ。

 二つの世界にしっかりとそれぞれの足を突っ込んでいる自分(保守的なクリスチャンの家庭に育ち、モンサントいいんじゃない系の教会の友達と、堆肥を自作するトンデモ系ヒッピーな農業仲間の友人が傍らにいた)。だからこのタブーの矛盾に手を伸ばし、取り組むことに決めたんだ。少なくとも、ほとんどの教会ではこの問いはタブーなのだ。

 キリスト教と環境保護、二つをつなげてみてもよいだろうか。キリスト教徒として、私は、神への崇拝を示すために創造物における管理者の義務を実践している。創造物の管理に従事することを、神は人間に対して望んでいると信じている。私は、この世のものは神が造りしものだと信じている。この考えによれば、神は私たちが「豚の豚らしさ」に敬意を払うかどうかを気にかけているのだ。なぜなら、豚は、人間が先進技術を駆使して新しいものに作り変える微粒子からなる物という表現以上のものだからだ。もちろん、生きものの中に機械的なものは存在している。しかし、私が言いたいのは、生きもの(その生態)は、単なる機械と呼ぶには程遠いものだということだ。

生きものは、感じとり、手加減し、治癒する

 生きているのか機械的なのかを区別する、最も大きく特に顕著なことの1つは、生きているものには治癒能力があることかもしれない。もしホイールベアリングがガタガタいえば、ベアリングにごめんねと言い、休ませ、潤滑油を挿してあげることはできるが、ベアリングはその後もガタガタいうだろう。しかし、生きいているものがガタピシ来れば、新しい皮膚、あるいは樹皮を作り、堆肥や骨スープにならないようにする。生きものは治癒することができるのだ。

 父は私たちによく言って聞かせていた。「覚えておけ。機械は手加減してはくれないぞ」。父が意味したのは、もし私がチェーンソーの扱いを間違え、チェーンソーが私の足を切断しても、チェーンソーは何の咎めも感じないということだ。チェーンソーはただの機械。私の足を切断したことなんてどうでもいいのだ。いのちあるもの、そして人間は、もちろん、手加減することができる。手荒に扱われた植物は、申し訳なかったという気持ちで手当てをされれば回復することができるんだ。

傷つけられた感情も、心ある謝罪と気遣いで持ち直すことができる。

 全ての生きものには感じる力が脈打っている。空を横切る黄金色の太陽という天体を追うひまわりの花から、植物の糖をミネラルと交換する土中の栄養たっぶりの微生物カフェまで、生命の演出は素晴らしく、謎に満ちている。知れば知るほど、知らないことにもっと気がつく。

 ミミズがなぜ右に曲がるのか、私たちは知らない。豚がどうしてあのように行動するのか。鶏はどうしてあのように振舞うのか。機械的な思考は、まるで16世紀にメキシコとベルーを征服した押し寄せる空威張りの征服者のように、この謎に対して、特許をとり、操り、消し去り、手を加えたりして猛然と手をつけ始めるのだ。けれども、豚のしっぽは、切り落とされるためにあるのではないことを私たちは知っている。鶏のくちばしは、切り離されるためにあるのではないことを知っている。動物の共食いは、工場式農業システムが崩壊し、間違っていることの確かな印なのだ。

 いのちが、並べ替えられた部品以上の意味を持たない世界に生きたくはない。これは重要なことだ。なぜなら、全ての生きものに対する私たちの扱いは、哲学的にも魂のレベルでも、人間同士を互いにどう扱うのかという事柄に結びついていくと、私が究極的に信じているからだ。生命が、車あるいはその配管以上の重みを持たないのなら、他者の見解や文化的相違、職業の選択を尊重することも必要がない。

活かす生産

 私の解決法は生産モデルを考え出すことだ。好奇心の強さや掘る力、嗅覚という天からの贈り物に表される、豚を豚らしくあらしめているものを大切にするモデルだ。私たちの農場では、掘らせないようにするための鼻の輪を豚につけない。その代わり、電気柵を使ってどこを掘るのかをコントロールする。安全な、管理された遊び場だ。お好みなら豚のベビーサークルと呼んでもいい。子供たちはベビーサークルの中で何時間も楽しく遊ぶことができる。豚も、探索したり、掘り返すという大切な役目を果たすことができる場所で、豚らしさを十分に発揮するのだ。

 農場では、雌鶏を入れるためのローラー付き巣箱は使用しない。巣の中の雌鶏の観察に何時間も費やしてきた。彼女達は落ち着いて座りはしない。1千羽という商業用の群れの中でさえも、1羽の雌鶏が産卵用の巣に入れば、全身全霊で巣作りにかかる。ベッドにするかけらを一方からついばみ、反対側へ置く。物を身の回りに動かす。羽でふわっとさせ、積もらせて、置くのだ。

 雌鶏が作る巣作りの微妙な違いを全て否定してしまうことは、雌鶏の品位を落とし、失礼だと思える。卵の味で違いがわかるだろうか。わからない。研究所で、干草の中で産卵された卵と、ローラー付き巣箱で産卵されたものの質的な違いが計測できるだろうか。できない。そんなことはかまわないのだ。というのも、栄養があって美味しい卵という以上に、巣に身を落ち着けた間、雌鶏に快適な思いをしてもらいたい、それが私の望むことだからだ。雌鶏の労働に敬意を示したいのだ。

 生きものに対しての世話のレベルが、最終的には、私たちに近しく大切な人たちへの心配り、コミュニティへの心配り、恵まれない人たちの苦境に対しての心配りに変わると思っている。多くの論文は、思いやりにかける行動の傾向が、虐待的な人間関係へと人を追いやることを示している。私がどうしてこんなにも子供たちの庭いじりや動物の世話を信奉するのか、これがその理由だ。生きものは大切にされればそれに応えるものなのだ。

 トマトを定植する時、ただ植えていくだけではない。それぞれの苗に話しかけているんだ。聞こえるように話しかけながら、もしくは心の中で語りかけながら、頑張れ光線を送っている。「これで大丈夫だ、おちびさん。大きくなれよ。やったじゃないか、小さな根が何本か出てきてるぞ。美味しい堆肥一つかみだ。外での初めての朝ごはん、楽しんでくれよ」。孫と一緒に定植する時、孫はこの話しかけが全く普通だと思っている。大人だけがトマトの苗に話しかけることを変だと思うのだ。

恐ろしいほど素晴らしく創られている

 信仰のコミュニティが、全てを所有する神を敬う行為として創造物の管理者義務を信奉する時、私たちが最終的な管理従事者であるとみなされるだろう。集中家畜飼養施設 (CAFO) に神の御加護を祈ることは、その教えに反することだ。 というのも、CAFO  も、それを支える理論も、豚や牛、鶏、そして彼らから影響を受ける人間が、神の御心の顕れであるという本質に、敬意を払っていないからだ。     

 生命の神聖さを讃える農場、聖書に言う「恐ろしいほど素晴らしく創られている」農場は、生命が各々の生理的な違いを表現する場所だ。この神を讃える農場では、森の中に、牧草の上に、そして積み肥の上に豚を見るだろう。尾っぽを切られて狭苦しい小部屋に入れられ、どろどろとした排泄物の上に浮かんだコンクリートの薄板の上で生きる豚ではない。太陽も、草も、蝶もいない。豚の生活の退屈さに思い及ぶことができないのなら、人生の退屈さにも思いを及ぼすことはできない。私たちは、私たちが作り出すものになるのだ。

 生命は機械学と呼ぶにはあまりに広汎で複雑なものだ。絶えず動き、感じ取り、そして生きている。私たちの高度化された技術の全てをもってしても、生命をとらえることはないだろう。逆に、この創造の荘厳な演出の中で、生命が、生命によって生み出され養われる私たちを捕まえるのだ。謙虚に敬意をもって私たちの居場所を生きることが、管理者の職務の限界と責任を理解する扉を開くのだ。生命を敬うこと。それが、究極として、神を敬うことへとつながるのだ。

 

ジョエル・サラティンは、バージニア州スウープのポリフェイス・ファームズ (Polyface Farms) で、存分に豚らしくさせて豚を放牧している。持続可能な農業について多くの著書を執筆している。最新刊は、「The Marvelous Pigness of Pigs(豚の素晴らしい豚らしさ)」

 

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